子供ができると、自分に費やす時間が減るので、じっくり振り返って考えることも減っていく。
それでも感じたことを頭で考え、体に染み込ませる必要はある。それを短時間で済ませようすると、Twitterに頼りがちになってしまうが、プラネテス2巻のハチの「全部オレのもんだ 孤独も 苦痛も 不安も 後悔ももったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ」を思い出してツイートする手を止めることがあった。
その瞬間、もうTwitterと自分の関係は終わってしまったと思った。多分、どちらかが「別れようか」と切り出せば、「うん」と静かに頷くはずだ。
元々人が多い所が苦手で、新宿、渋谷、池袋に行くのが苦痛だった。だからというわけではないが、誰も知らない所でこそこそと好きなことをツイートできるTwitterに雑踏を感じることはなく、居場所として心地よかった。
過去形だ。
数年前に鍵垢を作り、そこで昔の様に細々と楽しんでいたが、おすすめツイートや、いいねが表示されるようになってしまい、それも終わってしまった。
今やTLではフォロワーのいいね、マナー違反を晒しあげるツイート、そういう商材でもあるのかという文言のバズリメインのツイート、猫ちゃん、政治のツイート、等が否応にも前に来る様になってしまった。
そして今の常識から少しでも合わないようなツイートは安全圏から石を投げられめちゃくに叩かれる。TLのあちこちで目撃されるこの様子。見えない踏み絵の上を歩いているようで、どこか緊張感がある。
よく考えてみれば、ネガティブな情報というのは、実際であれば1人の人間から数分聞くだけでげんなりしてしまう負の力があるのだから、それをTL上で真剣に見なくとも目に入ってしまうので、疲れてしまうはずなわけだ。
TLを見ていると常に価値観のアップデートを強いられているような気持ちになるし、上記にあげた濁流の中でキラキラとしたツイートを放出するのは気が引けてしまう。
でもね、こんな僕の肩を優しく叩いてくれる存在がいるんだ?
キミは知ってるかい?Instagramっていうんだけど……?
インスタのストーリーや投稿に安心感を感じるのは、その人が直接投稿している所だと思う。
Twitterもそうだった。その人が考える考え、くだらないこと。それを覗き見る楽しさがあった。
もし今ドラえもんがいたら、僕は迷わずもしもボックスを使って「もしもTwitterにいいねとリツイートが機能が無かったら」と受話器を叩きつけるだろう。
こんなことを考えると、まるで自分が時代遅れかの様に感じることがあって明かすことはなかったけど、今はそうは思わない。この間の網走のイベントで、住んでいる場所で全力で楽しく遊んでいる人を見たし、誰にも知られない2人だけのセッションもあった。大事なのはそういう目の前のこと。
これは環境が大きく変わったことによる心境の変化なのかもしれないけど。
結局なんだかんだ鍵垢の方では好きなアニメとか漫画のツイートしかしない人達ばかりだし、Twitterのいいね非表示にすれば多少スッキリするし。
それでもやっぱりユーザーの趣味嗜好を表示させるアルゴリズムのせいで(恩恵もあるけど)、なんともいえないつまらなさが生まれた感じがしている。
最近はZINEを読んだ方が色々な人の考えが見れるので、そちらの方が面白い。
夜学舎が発行しているB面の歌を聞けが面白かった。
単純に今の自分とTwitterの相性が悪くなったという一行で済むお話でした。
それプラス正直自分の感性や瞬発力が衰えてきていて、SNSのスピードに付いていけない部分がある。
この辺りの話はだらだらと誰かと話してみたい。
それではまた。